梨木さんの文章を読むたびに、まるで音楽のようだと思います。
音楽が(独自の音階を除いて)「ドレミファソラシ」というたった7つの音の組み合わせから
様々に人を感動させる旋律をつくりあげるように、
梨木さんの文章は、日本語という、「あいうえお」から始まる四十七文字の組み合わせによって、
人の心を動かす文章をつくりあげているのです。

梨木さんの「文章」は、それを気づかせてくれました。
「文章」…つまり、「ことば」の可能性。その凄さを。






西の魔女が死んだ
1994年初版発行・楡出版
1996年4月新装版初版発行・小学館/2001年8月新潮文庫から発行
「そうよ、あの人は本物の魔女よ」…ひそかにそう呼んでいた祖母が死んだ。祖母の家へ向かう少女まいの 思いは次第に二年前の初夏へ還っていく。祖母とまいとたった二人、緑あふれる自然の中ではじめた「魔女修行」の日々へ。
卓越した自然描写は、まるで行間から土の匂いがするよう。 質素だけどもピュアな豊かさにあふれた生活と、自然のきらきらした輝きは、そのままお祖母さんが孫娘にそそぐ 愛にあふれた眼差しに同化して、文章の隅々までをも照らしているかのようです。 第28回児童文学者協会新人賞、第13回新美南吉児童文学賞、第44回小学館文学賞受賞。


渡りの一日
「日本児童文学」1996年1月号掲載
2001年8月発行「西の魔女が死んだ」文庫版に収録・新潮社(新潮文庫)
「西の魔女が死んだ」の後日談…と言っても、本編とは全く関係のない、とある一日。 本編の終盤でちらりと出てきた、まいの転校先での友人ショウコが登場。ショウコとまいは、日曜日に早起きをして サシバの渡りを見に行こうと約束していたが、当日、ショウコが大寝坊してしまい、その日の予定がどんどん狂いだして…。
まいの名字とショウコの名字が判明(笑)。 ショウコが具体的に登場していますが、こういう少女を指して(本編で)ああいう描写をしていたとは、 ちょっと意表をつかれました。まったく性格の違う二人ですが、案外こういう組み合わせが長続き したりするんですよね。社会の矛盾や皮肉っぽさは全く無い、成長途上の少女たちを明るくとらえた、 さわやかな短編です。うらやましくなるくらい(笑)。


丹生都比売(におつひめ)
1995年11月初版 発行・原生林
時代は日本上代、壬申の乱の直前。幼い病弱の皇子・草壁は、のちに天武天皇となる父と、持統天皇となる母とともに 吉野の山中にいた。幼くして孤独を知る少年はある日、喋ることのできない少女と出会い、彼女をキサと名付ける…。
草壁皇子は天武天皇とその皇后(後の持統天皇)の長男。母の皇后は我が子可愛さから自分の甥にあたる、庶民に人気の高かった大津皇子を死に追いやったとして知られています。しかし肝心の息子、草壁はその後急逝。皇后はみずから即位して持統天皇となります。悲運の皇子として庶民の同情を集めた大津皇子や有能な持統天皇に挟まれて、どうしても影の薄い草壁皇子を金の間に立つ銀の存在にたとえ、水の姫神「丹生都比売」をからめたこの作品は、どこかしら痛みを伴う沈黙と、すきとおって 冷たい冬の空気に満ちています。日本上代史が好きな方必読です。


エンジェル・エンジェル・エンジェル
1996年4月 発行・原生林
婆ちゃんは「天使」になってしまった…痴呆症を患い、精神が過去に戻ってしまった祖母の深夜のトイレの 世話をすることになったコウコ。彼女もまた昼間は母親に「天使みたい」と言われる優等生の良い子だが、実はカフェイン依存症を自覚する 不安定な心の持ち主だ。過敏な神経をなだめるために、熱帯魚を飼うことを思い立ったコウコは、ある日、エンゼルフィッシュを買ってくる。 水槽を準備し、サーモスタットのスイッチを入れた瞬間、モーター音のうなりと共に、ばあちゃんの過去とコウコの現在がリンクした…
起承転結のきいた物語を写実派と例えるなら、折々の情景を連ねることによって人間の心を 描くこの作品は印象派と言える…かな?(我ながら無理矢理な例えだ…)紹介文を書くまでに、およそ2年、4回以上の読み返しを必要とした やや難解な作品です。この作品の解釈は読み手の数だけあると思いますが、私は天使(善)に憧れ悪魔(悪)を憎みながらも、その両方を その身に併せもって生きていかねばならない「人間」の描写を主体に、そのどうにもし難い「人間」という存在への慰め、そして応援でも あると思いました。特に最後の詩は、すべて善悪の間をバランスを取って生きて行こうと日々努力している「普通の」人々すべてへのエールの ように思えます。


裏庭
1996年11月初版 発行・理論社/2001年1月新潮文庫から発行
丘のふもとのバーンズ屋敷。高い石垣に囲まれた、荒れ果てた洋館と広い庭。 だがそこには、もうひとつの「庭」があった。館の中、階段のホールにある大きな鏡からしか行けない、本当の「裏庭」が…。
緻密な世界設定のもとに織り上げられた異世界ファンタジー。しかし、これほどに現実に密着した 異世界も無いでしょう。ファンタジーだからこそ語ることができる、あらゆる人と時代の、絆の再生の物語。第1回児童文学ファンタジー大賞受賞。


からくりからくさ
1999年5月初版 発行・新潮社
染織という手仕事で繋がれた娘たちと一人の人形の、自然の気に守られたような穏やかな生活。 しかしそこにも嵐はうち寄せる。祝福の縦糸と怨念の横糸。それはときに世代や国境をも越えて織りつながれる、人の業とも言うべき、やるせなく深い思い。 しかし、人は生き続ける。その思いをこそひとつの旋律としてたえまなく奏で続けるために。
どちらかというと児童文学に分類されることがほとんどだった梨木さんの、初の一般文芸作品。 最初は「こんなに厚いもの読めるかな」と思ったのですが(笑)読み始めると止まりませんでした。さして派手な展開があるわけでもなく、 淡々とした口調で語り継がれていくそれに何故こんなにも惹きつけられるのかと散々考えて、だした答えが最上段に述べた「音のない音楽」です。 この作品は「りかさん」の続編になっています。発行はこちらの方が先ですが、時間軸的にはこちらが後です。 どちらから先に読んでもわかりますが、「りかさん」にて「からくりからくさ」に関する伏線がいくつかありますので、あちらを先に読んだ 方が良いかと思われます。


りかさん
1999年12月初版 発行・偕成社/2003年7月新潮文庫から発行
ひなまつり。お祝いにようこが欲しかったのは「リカちゃん人形」だったのに、それを約束したおばあちゃんが 贈ってくれたのは、真っ黒の髪の市松人形の「りかさん」だった。そして一週間目の夜、りかさんは突然喋りだした…。
言っておきますがホラーじゃありません(笑)。りかさんは、ようこのお祖母さんが少女の頃に 友達から譲り受けた人形で、とても気だてが良くて賢い人形なのです。ようこは、りかさんと一緒に他の人形がたどってきた歴史をかいま見て いきます。そしてそれは、人形を愛し、人形と共に生活してきた人間の歴史でもあるのです。「からくりからくさ」から さかのぼること数年。りかさんとようこ(蓉子)のなれそめの物語です。


春になったら苺を摘みに
2002年2月初版 発行・新潮社
 全9章からなりたつエッセイ集。最初の3章『ジョーのこと』『王様になったアダ』『ボヴァリー夫人はだれ?』は、 主にウェスト夫人とその隣人、そして夫人の家を訪れた下宿者たちに関する印象深い 思い出話。そして著者がスコットランド方面へ旅した時の話『子ども部屋』。ウェスト夫人の父親の 逸話や著者自身が出会った経験を通して語られる『それぞれの戦争』。著者が友人とプリンス・エドワード島へ 旅行する際の出来事をつづった『夜行列車』。ウェスト夫人の家族に招かれてニューヨークで過ごした クリスマスの思い出『クリスマス』。カナダのトロントに滞在していた時に出会った人々のこと『トロントのリス』。 そして最終章『最近のウェスト夫人の手紙から』。
 梨木さん久々の新刊はエッセイ。これまでの著作でもほとんど後書きというものがなく、作品以外で 言葉を語られるということが少なかった梨木さんの肉声があふれんばかりに詰まっていて、ファンならば 必読。でも急いで読まず、一日1章くらいのスピードでかみしめながら読みたい本です。
 私的に一番印象が強かったのは『子ども部屋』と『それぞれの戦争』…『夜行列車』と『トロントのリス』も かな…(ほとんどやんけ;)他の章もほのぼので面白いんですが、そういったほのぼのとしたエピソードと 印象に残る、心臓にずしんと来るような語りを織り交ぜています。
 そしてやはり、梨木さんは「からくりからくさ」で語られたことをまだ追い求めていらっしゃるんだな、と 強く思いました。「からくりからくさ」をより深く理解したい方にも是非おすすめしたいです。「からくり からくさ」のみならず、梨木作品のルーツを覗いたような気になりました。


ペンキや
2002年12月初版 絵・出久根育 発行・理論社
 しんやはペンキやの見習い職人。しんやが生まれる前にフランスへ行き、そこでなくなったお父さんも ペンキやでした。ペンキやにはいろんなお客さんがやってきます。寂しいお客さん、疲れたお客さん、 そして不思議なお客さんも……。
 理論社から刊行された梨木さんの絵本シリーズ第一弾。
絵本といっても文章は長く厚みがあり、短編童話と絵のコラボレーションといったところでしょうか。 出久根さんの絵はほんとうにペンキのにおいがするような深みのあるどこかしみじみとした懐かしさを 感じる絵で、梨木さんが澄んだ水のような言葉で語る「不世出のペンキや」の一生を、深く、 味わい深いものにしています。これは是非原画が見たい…!


蟹塚縁起
2003年2月初版 絵・木内達朗 発行・理論社
「むかし、むかしある所に…」という言葉ではじまりはしませんが、そんな言葉ではじまってもおかしくはない、 お年寄りが炉辺で昔話を語るように語られる、日本のどこかにある『蟹塚』という場所の由来(縁起)を語る物語。
 梨木さんの絵本シリーズ第二弾。
このお話は以前「日本児童文学」に掲載されていたものを読んだ記憶があります。あれに絵がついたんですね。
木内達朗さん、という方の絵を私は初めて見ましたが…これは、油絵、かな?よくよく厚塗りがされているような、 個性的なタッチです。たぶん、印刷に出てない部分もあるんだろうなあ、という感じがします。これも原画が見たいなあ…。

物語は、古典的な昔話の語りの手法に順じながらも、長い恨みの終わり、悔恨と再生を含んだ深い内容になっています。 急いで読んでしまわず、ゆっくり声に出して読みたいような物語です。


マジョモリ
2003年5月初版 絵・早川司寿乃 発行・理論社
「まじょもりへ ごしょうたい」――ある朝、つばきが目覚めたら、いつのまにか机の上にあった手紙。 つばきは誘われるように道向こうの「まじょもり」、つまり「御陵」へと入っていった。そこで待っていたのは うす緑の髪をもった若い女のひとで…。
 梨木さんの絵本シリーズ第三弾。
「西の魔女が死んだ」「裏庭」の文庫版表紙、そして「からくりからくさ」の装丁をてがけた 早川さんが絵を描かれるということで、どんな絵本になるのかとてもとても楽しみでした…!

 でも、まさか和風ファンタジーになるとは思わなかった(笑)。しかもコメディタッチだとも思わなかった。
 なんだか梨木さんと早川さんというと「からくりからくさ」のイメージが強くて、もっと森閑とした静かな、ぶっちゃけ夜の お話かなあと思っていたら、思いっきり早朝のお話でしたし。
 でも、さらりと書かれているけど、母子の相克というか、よく絵本に出てくるような、「ただ優しいお母さん」では「無い」お母さん というのが、とても新鮮で意表を突かれました。うわあ、そう来るか…!といった感じ。
 あたたかくて優しくて見守ってくれる母親というのは、もしかしたら「地震雷火事親父」の親父のようにどんどん希少な存在に なっているのかも知れませんね。そして昨今よく聞く「友達のような親」というのは、ある意味こんな母親を指すのかも。

 さわやかなのに奥が深くて、うっかり踏み込むと帰ってこれないような雰囲気をこの絵本に感じるのは、早川さんの絵の せいかも知れません。早川さんの絵は10年以上前から雑誌で見ていましたが、その頃からこの方の描く「空白の部分」はとても 怖くて美しくて、目を離せなかったものです。今回の絵本でも、とてもシンプルで優しいのに引き込まれそうな「空白」を 神秘的に描いていらっしゃいます。


ワニ ジャングルの憂鬱 草原の無関心
2004年1月初版 絵・出久根育 発行・理論社
ある所にいばりんぼうのワニが棲んでいました。カワウソの巣が欲しければそれを取り上げ、お腹が空けば通りがかったインパラを食べる、 やりたい放題のワニ。ところがある日、食べようとしたカメレオンに「仲間を食べるなんて」と言われ、動揺します。「ワニもカメレオンも同じ爬虫類、仲間じゃないか」 …ナカマ? ナカマって何? 初めて聞く言葉に、動揺したワニはその言葉を忘れられなくなり…。
 1冊目の絵本「ペンキや」と同じ出久根さんが絵を描いてらっしゃいますが、今回の絵は「ペンキや」とはうってかわって原色、原色、濃くて 鮮やかな色の世界。一ページ一ページに濃厚で息が詰まるようなジャングルの空気が漂っています。その中で語られる、まるで哲学のような 問答…。たくさんの寓意を含んでいるようでもあり、逆に「何が起きてもそういうもんさ」、という無常を描いているようでもあり。不思議な世界です。

しかし、読み終わって最後に思ったこと…「ライオンって、ワニを食べるの?」(笑)


ミケルの庭
2003年7月初版 絵・早川司寿乃 発行・新潮社(新潮文庫版「りかさん」に収録)
「からくりからくさ」の最後に誕生した赤ん坊ミケルと、その周りの女性たちを描く短編。
まだ口もきけない赤ん坊の、世界を「庭」ととらえる不思議な視点と、赤ん坊を可愛がる女性たち、特に赤ん坊の両親と浅からぬ縁がある紀久の、自分でも気付かなかった心の闇とを、「からくりからくさ」の中のキーワードのひとつでもあった「蛇」と「蔓」で結びつけて、深く優しく描く。
まずミケルの、赤ん坊のとらえるぼんやりとした「世界」の描き方に共感するまでに時間がかかりました。それほど独特。梨木さんは一歳の頃の記憶があるのかしら?と思ってしまうほどです。それと同時に紀久の、「かわいい」という言葉の奥に隠れた闇、そして「コントロールできると思っていた、視界の隅を走る小さな蛇」に飲み込まれるままならない恐怖といったものは、自分に同じ経験もないのに何だか知っているような感覚を誘発され、人事ではないような気にさせられました。最後の、ミケルと紀久の視線が一直線に結ばれた瞬間には、思わずじんわりさせられます。


家守綺譚
2004年1月初版 発行・新潮社
時は100年と少し前の日本。若き文筆家、綿貫征四郎は亡友・高堂の実家である二階家を、 高堂の父親から頼まれて住み込みで守ることになる。いわば住み込み管理人だが、 この池・庭つき二階家とその家を含む生活空間は、(人間を含め)おとなしく人間の利便の もとに管理されるようなものではなかった。
綿貫に恋する庭のサルスベリ。床の間の掛け軸に描かれた川を下って綿貫を訪う、(死んだはずの)友。 散歩道に転がる小鬼、タツノオトシゴを孕む白木蓮……そしていつのまにか、そんな日常を日常として 受け入れてしまう綿貫の、ちょっと変わった「家守」記録。
 何に驚いたかって男性が主人公の長編小説だ!
 最初の一章読んでびっくりした。前の長編小説が「からくりからくさ」でしょう、あんなテイストから 抜け切れないままこの本を手に取ったので、そのギャップにしばらく読むのを止めていたほど(爆)。フ、ファンとしてごめんなさい…。

 でも最初の30ページほども読めば、この世界に慣らされてしまいました(笑)。人間と、人間のものではない世界が、少しずつ 混ざりあっているような、そこはかとない不安と、浮遊感と、逆に「なんでも存在していて自然な」世界に感じる安心感が、全体に漂っています。
 一章一章がそれなりにまとまった、オムニバス形式になっているので、「次は何が出てくるのかな?」と楽しみながら、ゆったり したい時に少しずつ読んでもいいかも。淡々と始まって淡々と終わる一冊です。


村田エフェンディ滞土録
2004年4月初版 発行・角川書店
「家守綺譚」の中でもちょっぴり話題に上がった、「土耳古に行っている友人の村田」が主人公の、土耳古滞在の日々を描く作品です。

「エフェンディ」とは、トルコの言葉で「おもに学問を修めた人物に対する敬称」だそう。村田の下宿先のコック、トルコ人のムハンマドは 考古学関係者ばかりの下宿人をそう呼んでいるのです。下宿人は村田を含めて3人、ドイツ人のオットー、ギリシャ人のディミィトリス。そして 大家である女主人、イギリス人のディクソン夫人。
 肌の色も、それぞれ信じるところも異なる者たちが、約100年前の土耳古の空の下で、笑い、語り、ときに争い、分かり合える瞬間と、 分かり合えない沈黙を繰り返しながら、目に見えない「何か」を降り積もらせていく、長いようで短い交流と別れを、強く静かに描いています。
…爆涙。梨木作品でこんなに泣いたのは、「西の魔女が死んだ」以来かも知れません…。
まさかまさか、彼らの友情がこんなふうに…(以下ネタバレのため自粛)。思わずイギリスで出会った友人のことを思い出さずには いられませんでした。彼らの交流が私自身のそれに重なって、共感するところがたくさんあっただけに。人はたとえ生まれた国が違い、 思うところ、信じるものが違っても、思いやりをもって優しくすることで、「人として」互いにつきあうことができる。友情を培う ことができるのです。

それなのに、それでも人は、どうしたって「国」というものを背負っているんですね。一人で生まれて一人で死んでいくのに、人生の全ての面において 投げ出すことなどできない、「国」というものを、この本を読んで、強く感じずにはいられませんでした。もし自分がそんな局面において 選択を迫られる時が来たら、私はいったい何を選べるのでしょう…。
国籍の異なる知人友人を持つ人には必読の、そして国と国との関係が今また問われている今だからこそ、多くの人に読んで欲しいと思いました。


ぐるりのこと
2004年12月初版 発行・新潮社
エッセイ集第2弾。雑誌『考える人』に連載されたものの単行本でもあります。
今回は全8章。タイトルの「ぐるり」は、「自分の手が届く、ごく身近な周りの世界」を指す言葉。前回のエッセイ「春になったら〜」が英国での体験を中心にしていたのと好対象に、今回は主に日本、そして現在の梨木さんご自身を思わせる言葉があふれています。
人の住む空間と、人の心の中にある境界を考える『向こう側とこちら側、そしてどちらでもない場所』、『境界を行き来する』。藤原旅子の埋葬地を巡る話題から「自分の原点」を探る『隠れたい場所』。言葉と伝えたい事を考える『風の巡る場所』。長崎で起こった中学生の幼児殺人事件の衝撃を思う『大地へ』。ドライブをしながら「目的」と「経過」そして「出発点」を考える『目的へ向かう』。自分が属する世界とは何か、を問う『群れの境界から』。そして最終章『物語を』。
早く読みたいとは思ったものの、文章をうわすべりになぞることはしたくないと思って、自分に「思考」する心の余裕がある時に、それでも一日一章ずつ、というふうに読んでいたら、読み終えるのに二ヶ月かかってしまいました(…)。
でも、また最初から読み直しても、前に読んだ時とは違う感想を抱くんだろうなあ。でもそれも楽しみかも。
よりよくものを考えたとしても、すぐに考えたことを忘れて同じ事を繰り返してしまうのは人間の業。でも、繰り返し考えることによって、少しずつ、自分が気付かないほどに、自分の周りの世界と人々のことを深く考えられる人になりたい。そう思わせてくれた一冊でした。

中でも心に残っているのは、やはり『大地へ』かな。『「切れる」若者がいるなら、社会のどこかで「繋いで」いけばいい』というサラリとした言葉は、その言葉の妙とあいまって、ニュースから受ける衝撃と「じゃあ、私はどうしたらいいのか」という答えのない問いに一つの指針を与えてくれるようでした。『風の巡る場所』の、ヘジャーブの内側から見たムスリム女性の視点もとても新鮮でしたし、『群れの境界から』は、村ひとつが同じ墓に入る風習のある実家を持つ私にとって、常に心に留めておきたいものでした。


沼地のある森を抜けて
2005年8月初版 発行・新潮社
数ヶ月前、長女だった母の一番末の妹である叔母が死んだ。既に両親を失い、兄弟もいなかった久美は、 その時初めて母方の家の家宝であるという「ぬか床」の存在を知る。しかもそれは、もともと長女の長女である 久美が継ぐべきものであるから、久美が毎日このぬか床の面倒を見なければならないというのだ。
 仕方なく、毎日2回ぬか床をかき回す生活を始める久美。ところが、そのぬか床はただのぬか床ではなかった。 あるはずの無かった青い卵がぬか床の底から現れる。取り除こうとすると、ぬか床そのものが大音響で呻く。 しまいには、その卵から現れたとしか思えない少年が幻のように現れ、次第に実体を持ち、言葉を発し…。
 このぬか床は、いったい何なのか。久美は生活を乱され、戸惑い、次第にその謎に踏み入ってゆく。
普通、小説っていうものは、本の中に物語が最初から最後まで存在していて、それを文字によって自分の脳の中に 写し取る、っていうものですよね。でもこの本は―(梨木さんの小説には、昔から多少なりとその傾向があるんですけど)― そういう傍観者的な姿勢を読者に許さないようなところがあります。文字の上を滑るだけでは、この物語を 「読んだ」ものとして、消化することはできないんです(少なくとも私はそう感じました)。

 化学メーカーの研究室の研究員であるという点がいささか風変わりかもしれないけれど、その点を除けば至って 普通の独身勤労女性である久美。そこに突然舞い込んできた、物語の鍵になるにはあまりにも地味な「ぬか床」。 それによって始まる奇想天外な出来事が、ありふれた現実世界に無理矢理手をつっこんで全てを変えてしまうように ―(それはつまり「ぬか床」に毎日起きていることなのかも知れないけれど)―それが起きる前の世界にはどうやっても 戻れないような物語をつむぎ始めます。

 そして、突然、世界の位相が変わるかのように挿入される別世界の物語「かつて風に靡(なび)く白銀の草原があったシマの話」。 これは何かの、たとえば菌や細菌のような小さな世界で起きていることを例えて作られた寓話のようでもあり、またそれらとは 全く関係のない、別のものを例えた物語のようでもあり…それが、主人公である(はずの)久美の物語のどの部分に関わるものなのか、 それは明記されていません。それは、それこそ読む人ひとりひとり違っているものなのかも知れません。

 この本は、読む人によってはまったく解釈が異なる所もあれば、より単純に理解できる所もある、そういう不思議な物語です。 理系の人が読んだら、より深く分かる所もあるんだろうけど、まさか読者ひとりひとりにそういう理解を求めているとは 思えないし…。もしかしたら、この本の、というか物語の「正しい理解の仕方」なんてものは無いのかも知れません。
 それなのに、読み終えた後に不思議な充実感と平和があるのです。それがこの物語の一番の不思議かも知れません。まるで、 本当のところ完璧には理解できない自然の中に、自分という命が確かに存在するという実感のように。


水辺にて―on the water/off the water
2006年11月初版 発行・筑摩書房
準備中
準備中


この庭に―黒いミンクの話
2006年12月初版 絵・須藤由希子 発行・理論社
準備中
準備中