パッション
The Passion of The Christ
 
 

 

2004年アメリカ・イタリア/監督:メル・ギブソン/出演:ジム・カヴィーゼル
 まず最初に…この映画、聖書物語を知らない人は見て分かるものなのでしょうか?
 映画の中の物語は福音書の中のゲッセマネの園から、ゴルゴダの丘で死ぬところまでの話なのですが、 その途中にイエスやその母マリアが過去を思い出すという形で、イエスの幼児期や平和だった青年時代、 イエスが人々に歓迎されていた時代の栄光などが数多く挟みこまれています。こういったシーンは 聖書を読んでいない人には何が何だか分からないですよね? 特にマグダラのマリア=「姦淫の場で捕らえられたひとりの女」(ヨハネの福音書8章)と 解釈しているようですが、あの一瞬のシーンだけを見て、その時イエスがマリアに言った「あなたがたのうちで 罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を 犯してはなりません」のせりふを思い出すのは難しいと思うのですが…。

 そんなわけで、聖書を知らない人がこの映画を見て抱く感想は私にはまったく想像がつきませんが、あくまで個人的には 決して残虐な私刑シーンだけが売り物の作品にはまったく見えませんでした。確かに 鞭打ちのシーンや磔刑のシーンはリアリズムここに極まれりとでも言わんばかりの臨場感で、とても直視できませんでしたが、 一部で言われているようなサディズムやマゾヒズムの表現ではなかったと思います。どちらかというと、そういった風景を リアルに描くことで、それを目の当りにした周りの人々の反応や変化を如実に描き、それによって人間の善性や悪性を リアルに描こうとしたのではないかと思うのです。

 たとえば、野次馬に罵倒され、石を投げられつつ血まみれで歩むイエスの脳裏に、かつて棕櫚(しゅろ)の葉をふってイエスが 来るのを歓迎し、出迎えた人々の姿がよみがえります。イエスが奇跡を起こし、死者を生き返らせたときは歓呼してイエスを 迎えた人々が、彼が宗教権力者によって罪人と認められたとたん手のひらを返したように石を投げている。ここに私はこの映画が 描く人間の悪性=人間のエゴを見ました。また、そうした人々の間をひとの姿をとった悪魔が歩いているシーンは、イエスが 彼らの行動を彼ら自身ではなく「悪魔がさせていること」だと思い、つまり「罪を憎んで人を憎まず」にいようとしているのかな、 と思いました。

 一方、人間の善性として描かれているのは「人間の慈悲と憐憫の心」ではないかと思います。最初は集団心理のなせるままに イエスを罵倒していた人々も、イエスが傷つき倒れだすと、われに返ったように目を背け、良心の責めを感じるように顔を歪める 人が多くなっていきます。特に、弱ったイエスの代わりに十字架を処刑の場まで運ぶよう言いつけられた男のエピソードはそれが 顕著ですよね。最初は「関係ない」と嫌がっていた男が、あまりにもひどいイエスの様子に同情を抑えきれず、役人たちを 恐れながらも何かとイエスを気遣うようになる。ここで大事なのは、この男が、イエスを歴史に残るような偉人だと思ってかばった わけではないということ。ひどい目にあわされている人を、単純にかわいそうだ、いたわってあげたいと思ってやったことだという ことです。ちなみにこの部分、聖書にはこんなに詳しく書かれていません。だからこそ、ここに監督の意図が見てとれると思うのですが。

 女性陣の重要度もこの映画の重要なポイントですよね。正直、ピラトの妻のクラウディアがここまで詳しく描かれているのは 予想外でした。この人も聖書では思いっきりはしょられている存在だと思っていたので…この人をここまでイエスに同情的な人として 描くのには、なにか根拠があるのでしょうか?そのあたりを知りたいと思いました…。

 以上、イエスが死ぬまでの感想。

 …というふうに、イエスよりも周りの人々に注目して映画を見ていたので、イエスが死んだ後はなんだか聖書の記述を上滑り しているだけのように見えて、あまり感銘を受けませんでした。最後の復活シーンも、私はてっきりヨハネの福音書にあるマグダラの マリアと復活したイエスの邂逅を映像化してくれると思っていたので、あまりにも「人間そのもの」によみがえったイエスに 拍子抜けしてしまいました。……私には、復活したイエスがタンパク質の身体をもった人間にはどうにも思えないので。

 まあ、このあたりは、あくまでも「私の好みにあわなかった」というだけであって、監督にはそれなりに意味があるものだったの かも知れませんが。……でもやっぱり、最後にはマグダラのマリアを出して欲しかったな。あれだけ女性陣の遍歴を前半で 描いてくれたんだからさ。