ハリー・ポッターとアズカバンの囚人
HARRY POTTER and The Prisoner of Azkaban
 
 

 

2004年アメリカ/監督:アルフォンソ・キュアロン/出演:ダニエル・ラドクリフ
いろいろな所で言ったり書いたりしている事をもう一度言わせてもらえば、私は原作のある映画を「原作どおりに」映画化することなど不可能だし、むしろそれは傲慢な行為だと思う。
作品は作者のものだ。だが、作品を読んで得た感想は読者のものなのだ。
そして作者のものである作品といえど、多様な意味を持ち自由自在に変化するツールである『言葉』によって書かれている以上、作者が読者に「感動してほしい」と思ったシーンで読者が感動するとは限らない。 作者が面白くないと思っていた部分を、ある読者は面白いと思い、違う読者は面白くないと思う。それらを、作者がコントロールすることはできない。なぜなら、感想は読者のものだから。

私はこの考えを変えることができない。そしてそんな私にとって、これまでの映画版「ハリー・ポッター」シリーズは、物語としての映画という意味では、駄作にほかならなかった。 映画という創作表現が「動く挿絵」というものの媒体となるまでに発展したという一つの例としてならば、ある程度評価してもいいと思う。だが、「原作どおりに」映画化しようとした作品は、 結局「動く挿絵」以上のものにはなりえず、それどころか、「原作者お墨付き」「原作そのままの映像」といった売り文句によって、これから原作を読む人々に固定観念を与えるという弊害までおこした。

しかし、今回。予想はいい方に裏切られた。

私は最初、ほとんど期待していなかった。だが冒頭、相変わらずダーズリー家で我慢を強いられつつもめげないハリー、そして両親を侮辱されて爆発するハリーを、2シーンで片付けたのには驚かされた(しかもかなり笑わされるシーンだ)。
そして、いかにも楽しげなナイト・バスのシーン。ダイアゴン横丁でのシーンはかなり短縮。原作ではハリーに聞かせてはならないと黙っているウィーズリーおじさんが、あっさりハリーに秘密を話す。(原作に忠実であることのみを求めるファンが見たら爆発しそうなシーンだ)

必要な情報のためには原作の展開をためらわずに変え、そして監督が「ここだけは」と思っているであろうシーンには力を入れる。そして削ったシーンを補うために、原作には無いオリジナルのシーンを入れる。 ルーピン先生が音楽好きだという描写など、原作にあっただろうか? でも、映画のルーピン先生は音楽が大好きだ。授業でも自室でもレコードを欠かさない。 前回まではなかった、玄関ホールに揺れる大きな振り子。これが今回のテーマである「時間」の象徴なのだ。

もちろん、改変したがゆえの弊害もある。正直、今回の映画のどこでクリスマスが来てハロウィンが来たのか、最後まで気づかなかった。クィディッチ優勝シーンは入らなかった。それどころか、 クライマックスを理解するために必要な、ハリーの父親ジェームズとその友人たちの過去すらほとんど説明されなかった。そのため、原作を知らない人の間では、湖のシーンでなぜいきなり牡鹿が 出てきたのか分からない人は多いようだ。

私にしてみても、「映像になりそうなシーンだ」と思って楽しみにしていたシーンが多く削られていた。なのに、映画が終わった後、私はとても嬉しかったし、充実していた。なぜだろう。

それはやっぱり、「監督ハリー・ポッター」を見せてもらったからだと思う。私が小説「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を読んで感動したところ、映像で見たかったところと、 監督のそれとは違う。でも、違ってて当たり前だ。小説の解釈はひとりひとり違う。監督が見た「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」はああいった解釈で、そしてああいうシーンが 監督は好きで、大事にしたかったのだ。だからたとえ説明たらずでも、私は今回の映画は良かったと思う。 こういった姿勢を保ち続けて「炎のゴブレット」の製作をしてもらえるなら、見てみたい。そう思えた。